「サトシ」は本名です。
- 40代元バス運転士
- 家庭持ち
- 家のローン返済中(残約23年)
そんなぼくが、バスの運転手を辞めて「せどらー」に転身。
今日は、「ぼくが歩んで来た道」について書いていこうとおもう。
プロフィール
元バス運転士
昭和56年名古屋生まれ名古屋育ち。(現在40代前半)
正確には親が転勤族だったので、名古屋→東京→千葉→名古屋。(現在は千葉在住)
名古屋には0歳から1歳までと、小学校1年生から20歳まで住んでました。
20歳のときに岐阜のFラン大学を中退し上京。
そして今は18年間働いたバスの運転手を辞め、レトロゲームのメンテ販売をやっています。
金融資産は8桁。
(家のローンよりも、利回りが大きいので繰り上げ返済はしません。)
今後はフリーランスとして、ブログや築古戸建て投資もやっていきたいと考えてます。
※プロフィール画像は、ぼくが保有してるNFT。
クリプト・ニンジャ・パートナーズ・ジョブズ(通称CNPJ)の"ナルカミ"バスの運転手。
家族構成
妻、子供2人の4人家族。
ペットに犬猫と亀を各1匹ずつ。
千葉県にマイホームを購入し、ローン返済中。
ぼくの生い立ちは、名古屋→東京→千葉→名古屋→東京→千葉になる。
(狙ったわけではない)
育った環境
旧帝大卒で超一流証券マンの父と、千葉県の公立学校で国語の教師をしていた母との間に生まれた三男坊。
バブル期の中産階級の家庭に生まれ、何不自由なく育ててもらいました。
いわゆる「親ガチャ」には成功しましたw
中学生のころは、ハワイへホームステイへ行き英語の勉強をさせていただきました。
あの体験をさせていただいた両親には本当に感謝です<(_ _)>
それなのにFラン大中退で、運転職を転々としたのちにたどり着いたバス会社で、コロナをくらい意気消沈。
そんな「生まれてすいません😅」なぼくが、このブログの運営を行っております。
とんでも人生
注意)この先は閲覧注意とさせていただきます。
もし気分を害されても、なんの保証もできませんので自己責任でお願いします。
高校時代にイジメをうける😱
進学先のバカな工業高校でイジメをうけた💦
ぼくは勉強がとにかくできなかった。
なので中学校の先生からは、高卒資格の取れる専門学校への進学をすすめられたが、ぼくは「高校」と名のつくところへ進学したいと告げる。
そして、なんとか受かった工業高校でイジメを受けることになってしまったのだ。
いま考えれば、そんな学校にしか行けなかった自分が悪いわけなんだが😌
しかし、当時は必死だった。
学校へ行きたくないと泣き叫ぶが、親は「とりあえず高卒資格だけは取りなさい」と、ムリヤリ学校へ行くハメに💦
でも学校へは行きたくない。
しかし家にもいれない。
スリッパがハサミで切られて履けなくなったことがある。
ボクシング部の奴にボコボコにされたことがある。
ラグビー部の奴らにスコスコにされたことがある。
特に月曜日は一番憂鬱だった。
なぜならテレビのメチャイケでやってたことを、そのまま実験台としてやられたから💦
(土曜の夜に、月曜はどんなことをやられるのかテレビを見て予行演習してた🥶)
休憩時間では「学校を抜け出してお菓子買ってこい!」と言われ、先生に見つかり謹慎処分を受けたこともある😵
学校指定のカバンを、同じクラスの奴にパクられたことがある。
マンガン電池の中身を飲まさせられたことがある。
虫を蒸しパンに混ぜて食べさせられ、「これが真のムシパンだ(ゲラゲラ)」と笑われたことがある。
それも授業中の出来事。
欲しい革靴があるからパクってこいと言われたことがある。
体育の授業の前に、全裸にされそうになったことがある。(友達は全裸にさせられてた)
先生はわかっていても、何も対応してくれない。全く使えない。
もういやだ💦
そうだ、家出をしよう。
もう家出をするしか逃げ道がなかった。
しかし、11月の名古屋は寒すぎた💦
なのですぐに家に帰る。
案の定、無理に学校へ行かされイジメを卒業まで耐えに耐え続けた・・・。
勉強もくそくらえだし、とにかく高校を卒業することだけを人生の第一目標にかかげた。
その後なんとか高校を卒業はできたが、もう労力を使い果たしてしまった。。
岐阜県のFラン大に進学するが、性根尽き学校に通う意味がわからなくなり中退。
人間嫌い&うつ病を発症し、爆弾を抱えたまま今後生きていくことになる。
大学を辞めて上京。運送屋を転々とする。
家にもいれないから上京を試みる。
上京してからというもの、長距離陸送屋→海コントレーラー→大型生コンミキサー車など運転手の会社を転々とする。
どれも長続きしなかった…。
いや、きつすぎる💦💦💦
うつ病爆弾を抱えたぼくには無理だった。。
半年ももたない。
陸送会社は、車をキャリアカーに積んで全国のオークション会場や車屋をまわるという仕事だった。
頑張って全国を一般道で走り抜けた。
しかし、走っても走っても終わりはなく次の仕事をどんどん要求される。
寝る時間がない。
お金より寝る時間が欲しい。
そのあと徐々に楽な仕事に落としてはいったが、辞め癖がついてしまった。
ハードな仕事の敵は仕事だけど、イージーな仕事の敵は人間関係だった。
海上コンテナトレーラーや生コンミキサー車は、仕事はある程度楽に感じられたが人間関係にとにかく気を遣う。
とくに運転職ともなれば、尖ってる人も多く一般のサラリーマンでは理解しがたい性格の人も多い💦
特に生コンミキサー車は、無線による連係プレーが必須。
コミュ障でアスペなぼくには、到底コミュニケーションはできやしない。
そもそも運転職を選んだ理由はコレだった。
もう高校の時のイジメを受けるのは二度とごめんだ
横浜の生コン屋で働いてた時に、同僚の紹介で妻と知り合ったわけだが、すぐにそこも辞めてしまいフラフラしていた。
サトシ青年は、もう堕落しまくってて典型的なダメ人間。
この中間点の職種はなかろうか??
路線バス運転士になる
23歳のときに、そうだ!バスの運転手をやろう💡と思った。
さすがにバスなら、無理な仕事はさせないだろうとおもった。
茶髪にピアスで試験を受けて狭き門を見事突破して合格!
茶髪にピアス!?
そう。ぼくは大学にいた頃からトラック野郎時代まで、茶髪でピアスのイケメン(?)兄ちゃんだった・・・。
しかもそれで、某私鉄系のバス会社を受けに行った。
それなのに合格!?
いや、マジでした。
(入社前に黒く染めてピアスをとったけど)
某私鉄系子会社の一般路線バスの会社に見事入社。
しかし、思った以上にハードだった…。
ぼくが入社したハズの会社は、確か某大手K電鉄バス・・・?だよね?
あれ?まてよ??
某Kバス中央㈱・・・?
あれ?K電鉄グループに入ったんだよね?
マジで、入社してから先輩たちに聞くまでわからなかった💦
つまりぼくが入社した会社は、K電鉄バス㈱の子会社のKバス中央㈱。
東証一部上場の某K電鉄から見たら、孫請けの単なる中小企業。
募集を打ち切ってるK電鉄バス本体は、それなりにいい待遇で働いてるけど、こちとら子会社はクソすぎる対応だった。
会社側は、変わりはいくらでもいるし別に辞めてもいいんだよ??スタイル💦💦💦
これが氷河期世代です。
なんてこった💦
でももう人生には失望しきってるし何をいまさら。
そー思ったぼくは、今まで堕落してきた人生を払拭しようと、理不尽すぎる仕事内容もなんとか必死にこらえた。
変な客もたくさんいた。上司も運転手にはメチャクチャ強気。
全て運転手の責任。
なんでもかんでも僕が悪いらしい・・・。
だからと言って、辞めるといったときに散々文句を言われ、はたまた転職先にはあることないこと悪いことばかり告げられる。
(しかし他のバス会社は、この会社がそーゆー体質であることをよく知っているため、逆に後の転職に有利に働いたw)
都営バスの募集があれば、所長クラスが試験会場まで誰が受けてるかチェックしにくるというヤバさ💦
アルコールをならした者の宅には、問答無用で押し入って酒を飲んだ証拠をつかみにいくという無茶ぶり。
(バス会社はアルコールチェックを出勤前に必ず行います)
こんなところはさっさと退職です。
そう。これが俗にいう脱北😇
ここで結婚して子供も生まれたが4年ほどで退職。
つーか4年もいたのかってくらいヤバい某有名企業のグループでした。
空港発着の高速バスに転職
そんなときに、そうだ!あの空港発着の高速バスをやろう💡
そのバス会社は、ぼくが働いていたエリアにも乗り入れており憧れのバス会社だった。
フレンドリーで、オレンジのカラーリングがカッコいい(>_<)
帽子なし、グラサンok、マスクok(当時ぼくが働いてた所はダメだった)
若かったぼくはメチャクチャ憧れた。
しかしそこも狭き門。一筋縄ではいかない。
一回、二回落とされたが諦めなかった。
ぼくは羽田空港で働きながら、そのバス会社に入るために一生懸命頑張った。
三度目の正直といいましょうか??
努力が報われた瞬間だった!!
なんとか合格通知を手に入れた!!
この会社は、その人のやる気と根性を見て採用する会社だった。
ここに骨をうずめることを決意😂
しかし、入社してからの訓練はメチャクチャキ厳しかった。
教官からターゲットにされ、怒鳴られイビられながらも耐えた。
それを見てた同期に笑われながらも耐えた。
心の中では腸が煮えくりかえってたが、歯向かえば即首という軍隊さながらの訓練だった。
そんな笑ってた同期の半分が訓練に耐えられず脱落した。
半分泣きそうになりながらも、まだ赤ちゃんだった子供の顔を思いうかべ頑張った。
ここで踏ん張って、一生この会社で飯食っていくんだと心に決めていたからこそ成し遂げれた。
高校時代にイジメられた経験があるからこそ、こういう耐性だけはあった。
この会社は、他の運転職に比べれば楽な方。
けど、あくまでも「他の運転職に比べて」というわけであり、決して楽ではなかった。
なぜなら休日出勤が半強制的にあるから。
年間を通して4勤1休サイクルなのに、その1休を潰されたら9勤1休になる。
この9勤1休が常態化しており、さらには14勤1休も数回経験したことがある。
月間の休日数が2日とか3日とかそんな感じ💦
年間休日数が30日というグレーゾーンな企業だ。
それでも、他の運転職と比べたら好待遇だなんてどーかしている。
泊り明けがあるから?
いやいや明けだって身体はフラフラだ。
しかも、新しい路線ができれば経路訓練をしたり、他にも年二回の健康診断やら、厚生労働省から定められた3か月に一回の会議などなど、それらは明けを潰さなければならない。
自分の時間は一体どこにあるんだ??
しかし辞めたくても、もう辞められない。
他の会社に転職した所で、間違いなくもっとキツくなるし給料も安くなる。
しかも運転以外は全くの未経験なので、これで食っていく以外ない。
そんなこんなで、在職中にうつ病爆弾がさく裂。
まわりにそれを明かすこともできず、もがき苦しみながら仕事しつづけた。
それでも、時間だけはとてつもないスピードで過ぎていく。
赤ちゃんだった娘は、いまは口もきいてくれない高校生。
思えば、バスの運転手は2社を経験し合計で18年経験。
なんとかこのまま定年まで勤めようと考えていたのも束の間、
コロナ禍に入り会社がタイタニック号のように突然沈みはじめる🚢
あの映画のように、会社ごと氷山にぶつかった感じ😵
それまではイケイケドンドンだった会社だったのに、空港発着のバスなのでコロナの影響をもろ直撃💦
走っても走っても乗客0。
赤字をもろに垂れ流す。
それからの給料カットとボーナス0。
くっていけません。
むしろ、副業をメインにした方が稼げるんじゃね?とおもった。
そのうち自宅待機のダイヤが出来て、ほぼ毎日休みになった。
あれだけ苦労して入社して、
あれだけ苦労して訓練に耐えた会社なのに。
人生なにが起こるかわからないね。
せどらーになる
生きていくために、どうしなきゃならないか本気で考えはじめる。
この時間ができたのは、ラッキーだったのかもしれない。
そんなとき、1年間コロナ休暇(帰休)をいただくことができた。
リサイクルショップでバイトしながら、バス会社からも給料が出るという夢のような制度。
それを利用して、最後の1年間バス会社に籍を残した。
それから1年後、バス会社&バイトともに退職。
レトロゲーム転売ヤーとなる。
バス会社にいたころ、必死で働いてたためか時間が過ぎるのをとても早く感じた。
まだ若いはずだったのに、気が付いたら40過ぎの中年おじさん。
まるで浦島太郎が玉手箱を開けたように年とってた。(それはちょっと言いすぎか^_^;)
あれ?30代なにしてた?
まじでそんな感じです。
ブログを始めた3つの理由
- 将来が不安
- 複数の収入源を確保したい
- 自分の実績をシェアしたい
これからもどんどん開いていくであろう格差社会に備えて、副業にチャレンジ!
従来型の「労働者として会社に雇われて働く」ということが、だんだんと難しくなってきたと考えております。
なぜならAIの発達にくわえ、移民の受け入れにより益々仕事が失われていく・・・。
さらに昨今では、巨大地震、巨大津波、猛烈な台風、洪水、高波、感染症によるパンデミック、世界的な食料危機、米中の緊迫化、ロシアのウクライナ侵攻など、数え上げたらきりがない災害や人災を身近に感じるようになりました。
それらのリスクに伴い、物価の高騰が引き起こされますます生活しづらくなってまいりました。
リスクをヘッジするためにも、自分でお金を稼ぐ事を学び実践し続ける必要があります。
時代の変化と働き方の変化
ぼくのお爺さんは、明治生まれ。
山梨で洋服屋を営んでいました。
その当時の「働き方」としては、自営で食っていく以外なかった。
洋服をつくっては、甲府駅まで売りに行ってたとのことです。
当時は戦後の復旧で、洋服がバンバン売れたそう。
しかしある日、大手の紳士服メーカーが山梨に進出してきたとき、危機感を覚えたらしい。
というのも、大手にシェアを奪われてしまうから。
案の定、洋服はあまり売れなくなり途方に暮れる。
お爺さん的には、今のぼくみたく「もしダメなら会社で働く」という概念がなかった。
なぜなら、「自営業で働く」ということが田舎では当たり前だったので、会社に勤めるということは当時としては一般的ではなかった。
なので洋服が売れなくなる=死活問題だったわけです。
しかし、顔見知りや、それまでの顧客を大事に手放さなかったことが幸いして、子供3人大学を出し、生涯現役で87歳で亡くなるまで洋服屋を続けていました。
そして親父の代となると、労働者として一つの会社にしがみついていれば何とかなりました。
超一流証券マンの給料で年収1千万~2千万円。
たかがバスの運転手でも年収1千万円。
まさに1億総中流時代。
ぼくもその時代に生まれていれば、何も考えずにバスの運転手を定年までやっていたと思う。
企業は社員や社員の家族を護り、社員は企業のために働くというのが一般的な当時の日本の社会。
百田尚樹さんの著書で、
出光興産の創業者の話ですが、「社員は家族である」という概念をモットーに、度々重なる不運を乗り越えて社員の雇用をまもる様には圧巻。
明治、大正生まれの男たちが、死ぬ覚悟で戦前~戦中~戦後復旧までを、欧米の汚い石油メジャーや日本の他の石油大手、汚職まみれの官僚らを相手に、国家や国民、そして社員や社員の家族を護るために奮闘するはなし。
まさに当時の日本の強さはここにあると感じられました。
その根底にあるのは「愛国心」だと悟った。
当時の日本人は右も左も問わず、誰しもがそれを基本としていたことが今とは正反対。真逆であると感じました。
教育が大事なんだと常々おもいます。
ここでダラダラ書くのも難なので、もしよかったら手に取って読んで欲しい。
どこかでブログにしてもいいかも?
時間がないのであればオーディブルで聴くこともできる。
(ちょっと話が脱線しすぎたかも💦)
しかしぼくの代に入り、時代はまた変りました。
企業にとって一番のコストである人件費はなるべく抑えられるようになりました。
「企業は社員のためにあるのではなく、株主のためにある」
これが一般の日本人にも浸透してきた。
果たして会社や組合は従業員を守ってくれるでしょうか?正社員なら安心ですか??
ぼくはそうは思わない。バイト、派遣、準社員、嘱託、正社員。呼び名は沢山ありますが、すべて労働者であることには変わりはありません。
すべて同じ立場です。
そもそも、あした会社が存在しているのかも怪しい。
コロナ前は考えもしなかったことが、今となれば実際におこっている。
これからの時代は、「いかにリスクヘッジをしながら生きていくか?」の時代だと思う。
どういうことかというと、収入源を一つにしていたら、それがもしポシャッた時にどーする?ということ。
サラリーマンだけやってて、会社が突然コロナとかで傾いたらどーする?
つまり、「収入源をたくさん確保する必要がある」と思うんです。
サラリーマンやりながら、副業やったっていいじゃない。
独立してからも、ブログ書きながら物販やったっていいじゃない。
それらをやりながら、株式や不動産投資したっていいじゃない。
バイトやりながらそれらをやったっていいじゃん。
バスの運転士だって、戻ろうと思えばいつでも戻れるわけだし。
とにかく、収入源を複数つくっていくことが大事なんだとぼくは考えているのです。
どっちをとる?
1、仕事はキツイが、毎月安定的に収入が入る
2、自由に仕事はできるが、収入は決まっていない多くの人が選ぶのが前者だが、「毎月安定的に収入が入る」のは幻想である。
現にぼくもコロナで収入が激減した。
これからは複数の収入源をつくり、いち早く後者に挑戦した者の勝ち— サトシ|物販×投資ブログ (@satosu100) September 27, 2022
具体的にどうしていくのか?
・物販
・ブログ
・ツイッター
リスクヘッジのため、複数の収入源を確保するべく努力をしています。
物販でも、ebay、Amazonをはじめメルカリ、ヤフオクなど国内外へ複数の販路を持っています。
いまのところ物販メインで稼いでおりますが、ゆくゆくはブログやコンテンツ販売の方に力を注いでいきたいと考えております。
当ブログは、物販メインに記事を書いています。
投資系の方にいったん舵をきったこともあるのですが、結局は物販系に戻ってまいりました。
というのも、
- 実際にメインでやってる分野の方が続くとおもう。
- たとえ稼げなくても、インプットとアウトプットができて一石二鳥。
「元バス運転手がせどりを始めた3つの理由」と題し、ツイッターも発信しておりますので、もしよろしければフォローをお願いします。
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